努力は必ず報われる。
善行は認めてくれる。
このような考え方は公正世界仮説と呼ばれます。
ある意味、この考え方が社会進化の原動力になっていました。
努力をすれば、それは良い収入に結びついていく。
善い行いをしていれば、それは誰が見ていて、引きあげてくれる。
勉強をすれば、高い社会的地位を得られる。
そういうものを信じることで前向きに取り組むことができたし、
社会の秩序が守られていた部分もあると思うのです。
ただ、今の世界を見渡せば、
努力は必ず報われる。とは、言い難いものになっています。
というか、個人の努力では、どうすることもできない大きな力が働いている。
それを多くの人がわかり始めている。
だから、公正世界仮説を手放す時期に来ているのかもしれません。
努力は価値あるものだけれど、決して報われるものではない。
そういう価値観に変わることで、
努力しても結果が出ないことに落胆することも減るはず。
無力感に苛まれることもない。
先日、小梅太夫のWEB動画について書きました。
エスカレーターで登る紳士(素顔の小梅太夫)が
階段を登る小梅太夫に語り掛けます。
「こちら(エスカレーター〉は合理的だ。
同じところ(死)に向かっているのに…疲れるだろう?」
「疲れる。でも、実感が欲しい。自分の足で生きたという実感が」
そして、白塗りの小梅太夫がいつもの小唄の調子で歌う。
「人生の豊かさとは
何を成したかと思っていたら
どう生きたかでした」
エスカレーターの紳士が
「チクチョーは…なしか」
努力の意味というのは、外部ではなく、自分の中にあるのだと思います。